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その報道体制に対して反省して臨むそうだ。
しかし、思うに報道とは何か?
反省して臨んで彼らは何を報道するのか?
日本も米国のように陪審員制度みたいになると聞く。
だからということを付言していたが、
報道という姿勢をどう反省すれば彼らの言う公正というもの
が実現できるのか?本来的な性質上、私には疑問である。
「伝える」という行為はその時点で過去を伝える。
伝えている時点と伝えることが起こった時点には時間の隔たりがある。
その現在との離隔は物語でしか埋められない。
その物語が主観であるか?
客観的であるのか?
しかし、客観的事実も主観でしか伝えることは出来ない。
物語る語り部はいつも主観である。
では、
それをもって何を報道は反省するのか?
結局、報道自体が主観的であり恣意的なのだ。
「考えるコンサル」
「今、私たちに必要なのは沈黙である。」
それは報道しないという選択肢の採用以外ない。。
反省とは自分たちの存在否定であることすらわからないみたいだ。
「報道の在り方を考える」というが、
それは「あなたの存在自体の是非を考える」ということになり、
更に「あなたが今、生活している糧の放棄を考える」ということである。
あなた自身が失業するか?否か?
それが言葉を発信するモノの責任である。
その責任がとれないのはそれは報道という組織において
言っているだけである。
それはイデオロギーである。
ただうるさいだけだ。
沈黙する。
黙るという選択肢だってあるのだ。
ホラ、矛盾しないか?
その言と存在が。

※さて、私も某国に行くと同じ目に遭う可能性がある。
たぶん、・・・絶対。 |