ネット社会とはいうものの 未だ分厚い広辞苑を引いている。 日に何度も、机の上においてある広辞苑を手にするのだが、 最近、これが苦痛である。 重いのだ。 広辞苑を引く度に鉄アレイでエクササイズをしているような 気がしてならない。 これが億劫であり、語彙の意味を知る前に気持ちが萎える。 じゃぁというので、常時、広辞苑を開きっぱなしにし、 机に置いておいたことがある。 こうすればいちいちこの鉄アレイを持ち上げないで済む。 しかし、これも場所を取りすぎるのですぐにやめた。 私が使っている広辞苑は《第四版》 最近、《第六版》が発売されたそうだが、 たぶんこれよりも文字数も増え、絶対さらに重くなっている。 ここ1年くらい、 自慢するほどよかった視力が相当、落ちている。 昼間はまだ見えるのだが、 夕方からは霞んで文字が読めない。 文字が二重に見えて判読できない。 昔は飲みながら読書というのが夜の過ごし方だったが、 今じゃそれも出来ず、 帰宅すると風呂はいってサッサと寝る。 今年で私は45歳になる。 「考えるコンサル」 「年を取ると言うことは言葉から 見放されるということか?」 《第六版》には机上版というあの分厚い広辞苑を分割した バージョンが出されているみたいだが、 根本的な話だが、 そんなにたくさんの「言葉」 「語彙」って必要なのか? 果たして追加された語彙は必要ないのではないかと 私は思う。 その事情(モノ)を直接的に名指しすることが 果たして言葉の役割なのか? 何か違うような気がする。 語彙と言葉との隔たりにおいて私はそう思う。 いろいろなモノが過ぎ去って行き、 これからも過ぎ去って行くだろう。 私の人生さえも。
ゼロから生まれゼロに帰る。 http://yasuo-yaohide.hp.infoseek.co.jp/shaka.html
投稿者 執念君。 : 2008年01月30日 09:21
さぁ、その生まれる前のゼロと 帰したゼロは・・・同じゼロなのか? 無は無という名において無であり、 名も無き無もまた無である。 これも言葉。 その言葉が過ぎ去っても そこにいた事実は残る。 これも言葉。 コメントありがとうございました。
投稿者 今井裕志 : 2008年01月30日 19:50
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