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昨日、午前中2時間のジョギングした。
・・・その2時間 考えるコンサル。
アプローチはいつも変だが、ビジネスの話である。
「私たちは永遠に存在する。
私の存在が消滅することはない」
という言葉が走りながら、
このド田舎の風景。
その中に在る銀杏の大木を見て急に想起した。
たぶん、この木は俺が死んだ後も、ここにあるだろうと
ふと思ったのがきっかけ。
・・・・
それは死なないということではなく、
死はあるが存在は消滅しないということ。
死を誰も経験できない。
この経験不可能性において死後の世界は推測の域を出ない。
だからその死後の世界に対しての定義がそれぞれの信仰を生む。
経験不可能であり、
絶対解けない死後に対しての不安が私たちの根源にある。
だから、色とりどりの百貨店のような品揃えの信仰から
自分にあった信仰を選ぶ。
これが宗教という商品。
しかし、
死後に私という存在が永遠か。どうかという話ではない。
逆なのだ。
私たちは生まれてきた瞬間により永遠の存在になる。
生まれてきてしまったという事実が在ることが永遠だ。
この事実は事実としてどうやっても消し去ることは出来ない。
無かったことにすることが出来ないのが生まれてしまった事実。
その消すことが絶対不可能な事実が永遠なのだ。
そして私たちは生命を授かった時に命名される。
アイデンティティとしての名。
この生まれてしまった事実とは
命名された私たちの名前の存在である。
この名前が永遠なのだ。
私たちは永遠に存在する【名前】である。
これは仮想社会でも同じことが言える。
インターネットという世界と今、目の前に広がる
私たちが生きているリアルな世界。
これは同じ。
ネットの世界に書き込まれた【言葉】は消えることはない。
永遠にこの仮想世界自体が無くなるまで存在する。
一億総露出狂社会とこのブログをはじめる第1話で言い捨てた現代。
その露出した言葉は永遠に刻印され存在するのだ。
だから・・・。
その言葉。
・ ・・・ジョギングしながら
銀杏を仰ぎながら考えるコンサル。
では、また。
※ 写真と本文は言うまでもなく関係ない。
写真に写っている後ろの神社もただの背景であり、
この写真になんの意味も付与していない。
でも・・・
「言葉というモノは、ひとたび書きものにされると
どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、
ぜんぜん不適当な人々のこころであろうとおかまえなしに
転々と巡り歩く」/『パイドロス』
だから・・・。
これをブランドっていうんじゃないですか?
ホラ、ビジネスの話だって言っただろ。
イヤ、銀杏の話だ。
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